岡倉天心は、芳崖から「人生の慈悲は母の子を愛するに若くはなし。観音は理想的の母なり」という言葉を聞いたといいます。この絵に描かれた赤子は1882年に生まれた芳崖の初孫だといいますが、一方で芳崖はこの絵を制作中に、最愛の妻よしを病で亡くしています。彼自身にとっても絶筆となりました。一見、伝統的な仏画のようですが、制作の動機には個人的な生と死のドラマがあったわけです。近代絵画最初の重要文化財となりました。
この年初めて文展の審査員を委嘱された春草は屏風の大作に挑みましたが、どうしても納得がいかずそれを破棄、急遽、近所の焼き芋屋の猫を借りてきて、わずか5日間で仕上げたのが本作でした。とはいえ、短期間の制作でもそれまでの研究の蓄積が凝縮されています。こちらを見据える黒猫は輪郭のぼかしにより柔らかな毛並みが見事に表され、金泥による柏の葉との色彩の対比も鮮やか。写実と装飾が見事に一致した傑作と高い評価を得ました。
山奥の一滴の水が、やがて集まり渓流となって、大河となり海へと注ぎ、嵐とともに龍となって天へと還るという水の輪廻を表した水墨絵巻。全長40mあるため、東京国立近代美術館でも1階の細長い展示スペースでしか全部を広げられません。従って全貌を見られる機会は数年に一度、お見逃しなく。ちなみに2023年は本作が描かれてちょうど100年。展覧会初日に関東大震災が起きましたが救い出されました。40mを巻き取るのはさぞかし大変だったでしょう。
東本願寺から天女の天井画を依頼された竹内栖鳳は、はじめ荻原守衛《女》のモデルも務めた岡田みどりを京都に呼び習作を進めていました。しかし彼女が病を得て急死したため、代わりの若いモデルを呼び寄せたところ、まだ慣れないその女性は脱衣を躊躇しました。その様子にインスピレーションを受けて生まれたのがこの作品。タイトルも含めて、絵画史にひそむ男性画家と女性モデルとの間の視線の力学に気づかされるという意味で、現代的な「問題作」でもあります。
松園はしばしば「美人画の名手」と呼ばれます。でも美人画という言葉にはどこか、男性からの欲望のまじった視線が感じられませんか。それに対して、この作品に描かれた女性はどうでしょう。幼児を抱いてやさしい眼差しを向ける母親。実際のモデルは息子の松篁の嫁・たねとその子の淳之ですが、ここには同年に亡くなった松園の母・仲子への哀惜と感謝も込められており、いわゆる「美人画」とは一線を画しているように思われます。
一見、抽象絵画に見えるかもしれません。発表当時、「今年の日本画中で、もっとも問題を提供するもの」で「果してこれが画か、模様か」とも評されましたが、作者は琵琶湖で釣りをしながら湖面のきらめきに興味を覚え、スケッチを繰り返し、また友人の写真家の協力も得て構想をまとめたといい、実際には綿密な自然観察から生み出されています。水面に反射する光は、金箔の上にさらにプラチナ箔を貼ることで輝かしい効果を生み出しています。
油絵で最初の重要文化財指定(1967年)。西洋から新たに学んだ油絵で、従来の日本の技法材料では困難だった本物そっくりの描写が可能となったことへの素直な感動が表されています。由一の興味は、とくに質感表現にあったようで、半身が切り取られているのも、ごわごわした皮と脂ののった身との質感の対比を表したかったからに違いありません、その意味では鮭を吊るす縄にもご注目。藁の毛羽立ちまでリアルに描かれています。
ドイツで油彩画を学んだ原田は、西洋の伝統的な宗教画の描き方を身につけて、帰国後はその技術で仏教的主題に挑みました。伝統的な仏画とは異なり、陰影や遠近法が取り入れられたリアルな描写のこの作品は、当時の日本の人々にはとまどいをもって受け止められましたが、今日から振り返れば、異文化交流の成果の典型的な例といえるでしょう。ちなみに龍は実物を写生するわけにはいかないので、原田は犬、鶏などを参考にしたそうです。
箱根の芦ノ湖畔に佇む浴衣姿の夫人を描いた涼やかなこの作品は、日本的な油絵表現のひとつの典型的な作例として今日誰もが知る名作ですが、重要文化財に指定されたのは意外にもごく最近の1999年。実は、明治100年を記念して1967-68年に明治時代の作品がまとめて重要文化財に指定されたときに、この作品も最終候補まで残ったそうですが、最終的に選からもれたといいます。果してその理由は……。詳しくは展覧会で。
『古事記』の海幸彦・山幸彦の挿話に基づく作品。失くした釣針を探しに海底にある神殿の井戸を訪ね、その傍らの木に登った山幸彦が、海神の娘の豊玉姫(画面左下)と出会う場面です。青木は制作にあたり綿密な考証を行い、潜水具で海に潜って海底のイメージを掴むなど心血を注ぎましたが、展覧会では賛否が分かれ不本意な成績に終わります。しかし明治浪漫主義の代表作のひとつとして、明治100年を過ぎた1969年に重要文化財となりました。
劉生は娘の麗子を数多く描いていますが、数えで8歳の姿を描いた本作は最もよく知られた1点。彼は麗子を描くことで、「顔や眼にやどる心の美、一口に云えば深さ」を会得したといい、それをレオナルド・ダ・ヴィンチに教えられたともいいます。そして本作では「今までの私の絵にあまりなかった、やわらか味が加えられてあります。一種妖艶のような味が加えられました」とのこと。そんな言葉を聞くと、この麗子の微笑をモナリザと比べてみたくなります。
東京美術学校の卒業制作で、19人中16番目という低評価だったにもかかわらず、「個性的な芸術家たちを輩出した大正時代の劈頭を飾る」記念碑的作品として2000年に重要文化財に指定されました。ゴッホの影響を示す早い時期の作品というだけでなく、近年の研究では、師の黒田清輝の作品と同じ題材を扱いながら、モデルと作者の視点のヒエラルキーを逆転させていることが明らかにされており、ジェンダー論的な意味でも興味深い作品です。
上野の西郷さんや皇居前の楠木正成像などでよく知られる高村光雲。本作はシカゴ万博で受賞した彼の代表作。猿の左手には鳥の羽根が握られています。鷲を捕えようとして取り逃がし、その飛び去る姿を睨みつける様子を表したものといわれますが、万博では日本館の隣にロシア館があり、鷲はロシアを暗示していると、息子の高村光太郎は回想しています。欧米列強に肩を並べようとしていた明治の日本の姿をそこに見ることができるでしょう。
ドイツで彫刻を学んだ新海が、第1回文展に審査員として出品した意欲作です。裸体の立像ですが、胸から太腿にかけて、濡れた手ぬぐいが肌にはりついているように表されています。当時はまだ裸体表現が風紀取締りの対象となることがしばしばあったため、それを避ける工夫でしょう。ところでこの女性、髪型や顔立ちを見ると日本人ですが、プロポーションはいかにも西洋人。この不思議な混在に異文化摂取のおもしろさが見て取れるでしょう。
なぜか壺の上に、渡り蟹。本物そっくりですが、全部やきもの。壺は奇妙に変形されていて、露わになった土の質感と、だらりと流れる釉薬が一層グロテスクさを醸し出しています。明治の輸出工芸は「日本趣味」を過剰にまとった「欧米向け土産物」として評価の低い時代が続きましたが、1990年代以降、主に博覧会研究の進展によって再評価が進み、本作は精巧な手わざを示す明治工芸の代表作のひとつとして2002年に指定されました。いま「超絶技巧」性が脚光を浴びています。
色とりどりの繋ぎ緒を付けた十二の鷹の肖像は、「架鷹図」として描き継がれてきた画題ですが、由緒正しき屏風絵から飛び出てきたような本作は、金属製の鷹。1893年のシカゴ万国博覧会出品のために24人もの職人が動員されました。羽根の細部を精緻に表し、それぞれの年齢、体格の違いや気性まで正確に捉えています。江戸時代以来の金工技術の粋を尽くした作と評価されてきましたが、近年のX線調査で、当時導入されたばかりの電気メッキが用いられている可能性も出てきました。